告白するけど、1年程前に起きたとある個人的な出来事によって、文脈を読む力が身に付いた。なんとも皮肉なことだが、これは前からずっと欲しかったものだ。
文脈を読み解くとは、どういうことかと言うと「こうしたら、こうなって、こうなるから、こうなるね」みたいな、因果関係のことである。
本来、人というのはシンプルだ。欲も目標も希望も努力もその人の中にしかなく、その人が関わりを持たずに生きているなら、その存在を考えなくてもいいし、複雑な状況は生まれない。だが、人は人と関わって生きている。
だからこそ、仲良くなって共存したり、好きなのに離れて寂しくなったり、仲良く無いのに一緒に居たり、争ってみたり、なんてことが起きる。「それが嫌なら耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ」と公安9課の草薙素子に言ってもらうといい。
で、多くの場合は、関わることによって生まれた「関係」を「複雑」に感じるものだ。自分の考えと一致しない場合、そこに軋轢が生まれるのは当然のことである。
だが、文脈=コンテクストを読み解けるようになると、ハラも立たない。世の中のことの多くが、「仕方ない」に変わる。そうなると、他人の成長や評価を気にすることの意味のないことに気づく。そうすると自然に、文脈の中にいる自分自身に集中した方が、どれだけのチャンスを生み出せるだろうか?と考えられるようになる。
世の中のほとんどは「仕方ない」ことだ。
仕方ないとは諦めているわけではない、あえて言うなら「寝かしておく」ということだ。
今、問題解決のためのメソッドをまとめている。
「製造業で新商品を作りたい」「会社の中がギスギスしている」「業績が落ちてきてしまったけど....」「プロジェクトが思うように進まない」など、コミュニティから組織、事業に至るまで、なんでもござれなメソッドであると自負している。
問題は、これをどう出して行くか。
つまり、自分自身が課題を抱えているという状況なのだ(笑。
先日、10年来の知人にお会いした。お酒を飲みながら涙してみたりして、知人から友人になったその日、この悩みを相談してみた。
「なんでもいけるなら、まずは具体例を出した方が良いよ」と言われた。
なるほど、そうだ。その人が言うことはいつでも正しかった。
僕のメソッドの中にも「主体性を持つためのつなぎ目のデザイン」というプロセスがあるのだが、まさにそれだ。
ということで、現在、具体例の設定に苦慮している。適当に選ぶと多分失敗するので(笑)、そこは心して考えることにした。このブログ上で展開するのであれば、やはりコミュニティFMをテーマにした方が良い気もするけど、さて、どうしたものか。
もう少し考えよう。
群馬県桐生市の会社です。地場産業振興を目的とした地域コミュニティブランドの活動、市民参加型×防災×コミュニティFMの運営などの相談受けてます。 【ミッション】地域情報化、コミュニティFM、地場産業の振興など。 【設立背景】NPO法人桐生地域情報ネットワークの地域情報化の活動から生まれた企業です。
2014年6月10日火曜日
2014年5月30日金曜日
【Radio】成長と維持、持続性のカギとは? 実践編その1
どんなラジオ局にしたいか、ということを考える検討編に続き、今回から数回に渡って「実践編」をお送りして行きたいと思います。例えば、機材にはどんなものが必要なの?著作権ってどうするの?など、「実際どうなのよー??」という疑問について、よく聞かれるトピックを紹介していきたいと思います。
その前に、このまとめの意図についてお話しておきます。
これらは「成長するコミュニティFM」というテーマに基づいております。実際に運営に関わって感じたのが、如何に全体を見れるか、ということと、それを踏まえてディティールに拘れるか、という点でした。これはラジオ局に関係なく、あらゆる業種においても有効です。全体を見て、部分に拘る、という姿勢は、私が行っているコンサルタント業務でもお話をしていることです。
コミュニティFMの成長とは、ヒト、モノ、カネを持続的に増やしていることです。普通の企業の成長と変わりません。コミュニティFMでもそれが実践できるのですが、固定観念を無くして読んで頂けると、すーっと入ってくるように書いております。
さて、実践編その1ですが、根源的な問いです。会社としての成長と維持です。会社である以上、売上は右肩上がりでありたい、または、ずっと成長しないとしても、ある程度の水準で維持をしたい、と考えるのは自然なことです。しかし、本質的には広告業であるコミュニティFMにおいては、地域の経済状況と直結しますので、地域が丸ごと儲かる状況にもならない限りは、広告市場も大きくならないので、売上はどこかの段階で横ばいになってしまいます。
その前に、このまとめの意図についてお話しておきます。
これらは「成長するコミュニティFM」というテーマに基づいております。実際に運営に関わって感じたのが、如何に全体を見れるか、ということと、それを踏まえてディティールに拘れるか、という点でした。これはラジオ局に関係なく、あらゆる業種においても有効です。全体を見て、部分に拘る、という姿勢は、私が行っているコンサルタント業務でもお話をしていることです。
コミュニティFMの成長とは、ヒト、モノ、カネを持続的に増やしていることです。普通の企業の成長と変わりません。コミュニティFMでもそれが実践できるのですが、固定観念を無くして読んで頂けると、すーっと入ってくるように書いております。
さて、実践編その1ですが、根源的な問いです。会社としての成長と維持です。会社である以上、売上は右肩上がりでありたい、または、ずっと成長しないとしても、ある程度の水準で維持をしたい、と考えるのは自然なことです。しかし、本質的には広告業であるコミュニティFMにおいては、地域の経済状況と直結しますので、地域が丸ごと儲かる状況にもならない限りは、広告市場も大きくならないので、売上はどこかの段階で横ばいになってしまいます。
その前提を踏まえた上で、ラジオ局を作りたい、という時に、大きくわけて2つのことに取り組んで行く必要があります。ここではあえて分けて取り組むことをオススメしますが、その2つとは、周波数獲得とアンテナ設置、それと、運営体制の整備です。簡単に言えば、ハードの整備とソフトの整備と言えるでしょうか。
数年前に電波法が改正されました。
それによって出来るようになったのが、ハードとソフトを分離する、というやり方です。極端な話、アンテナを持つ会社と番組を作る会社が別でもいいよ、ということです。以前は、原則的に一体でないとダメでした。
なので、複数の地域にまたがって、アンテナと電波を持つハード専門の会社が生まれるかもしれません。基本的には、電波法の摘要は、電波の割当をもらったアンテナを整備する会社が対象になります。故に、アンテナや電波は持たずに、複数の放送局に放送料を支払いながら番組を放送する、という事業も可能になるわけです。その場合、それはイベント会社かもしれませんし、出版社かもしれません。そんなことも可能になったのです。
分離できることのメリットを考えるとコミュニティFMの運営方法が大きく変わっていくかもしれない、ということがよくわかります。
ハードとソフトが一体的に運営される場合を考えます。
地域のメディアがない状態でコミュニティFMが誕生したとします。そうすると、当初は様々な方が関わりだします。その期待値は、初年度の売上という数字でそのまま反映されるでしょう。しかし、数年すると売上が横ばいになります。その数字がその地域の「広告市場の限界」と言えます。
この限界とは、それ以上稼げない、ということではありません。正確に言うと「今の体制ではそれ以上稼げない」ということになります。つまり、写真1人で1000万円売り上げるとすると、社員3人なら3000万円、5人なら5000万円、ということになります。よって、会社として、それ以上の売上を求める場合には、①スタッフを入れて体制を強化する、②聴取率を上げて出稿率を上げる、③いっそのこと別の事業を行う、などの選択をする必要があります。
一方「それ以上稼がない」という選択肢もあります。少し矛盾しているかもしれませんが、維持こそ継続と考える方法です。これは運営に関わる支出を、固定経費、変動経費としてわけて考え、主にハードウェアの維持=固定経費を基準に、それを維持させるための運営を行う、ということになります。つまり、この場合、働くスタッフも入れ替わって行く方がいいかもしれません。若いスタッフを育てて、という考え方だと、売上が横ばいである以上、お給料をアップすることも難しいので、横ばいの給料でいいよ、という方を集めるか、それができないといずれ入れ替えることになります。なので、社員教育をしながらというのは難しいかもしれません。
基本的に、入ってくる以上に使わなければキャッシュフローに問題は起きません。会社の運営としてこれ以上シンプルな考え方はありません。ですが、実際に運営してみると、どうにもお金がかかってしまうのです。
これまでにも、いくつかのコミュニティFMの方々とお話をしてきましたが、最近、資本金1500万円、1000万円で整備を整えて開局したという放送局の方にお会いしました。イニシャルコストを抑えてスタートさせるのは、本当に大変なことですが、実に多くのノウハウが詰まっていることがわかりました。私自身が考える「成長するコミュニティFM」には欠かせません。イニシャルコストの大小は、ランニングコストにも直結してきます。
次回以降は、主に、運営の部分についてお話をしていきます。若干機材のことも入ってきますが、私自身は専門としていないので、機材に関しては個別にご相談頂ければと思います。
2014年5月26日月曜日
【閑話】マクドのポテトの17の原料が明らかに!だって。
http://ameblo.jp/wake-up-japan/entry-11582746530.html#cbox
こういう記事って無条件に広がるからなんだかなぁと思います。
17の成分のうち、全部ではないですが、いくつかを調べてみると(だいたい10分くらいの所要時間でしょうか)、いろいろと知識を得られました。
シェアする方の中にそういう方がどれくらいいらっしゃるのか。
17の成分については、一部を除けばごくごく一般的なもののようです。
色の保持に使われているナトリウムの説明はラディッシュボーヤのサイトにありまして、解説にある「ピロリン酸二水素ナトリウム」が同じものかはわかりませんが、「ピロリン酸塩の中では、比較的よく使用されるものであり、かんすい、膨張剤の成分として、また、食品のpH調整の目的や、プロセスチーズ等における乳化塩として使用される。」と書かれています。
また、ポリジメチルシロキサンは、こんな具合。
http://daijiten.radishbo-ya.co.jp/outline/704.html
シリコーン油は体内に吸収されず出ちゃうのもあるようですね。
で、実際には、パッと見ただけでわからないわけですよ。
さて、問題のごく一部が何かということですが、こういう方々が騒ぎたいのであれば、THBQ :tert-ブチルヒドロキノンについてでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Tert-ブチルヒドロキノン
-------
~抜粋~
冷凍魚と魚製品で許可されている添加の上限値は1000 mg/kgである。
~抜粋~
日本では食品添加物としての利用が認められておらず、TBHQを含む食品の輸入・販売が禁止されている[5]。
-------
ちなみに、過去にこれが検出された例がありますが、検出量は諸外国の指定範囲内ではあります。
http://www.eiken.pref.kanagawa.jp/008_topics/files/topics_070207.htm
さて、ここまで来てもう一度よく見てみましょう。
http://www1.mcdonalds.ca/NutritionCalculator/IngredientFactsEN.pdf
この原材料の発表は、アドレスを見ると、カナダのマクドナルドのようです。よって、日本であーだこーだいっても、「日本のポテトの成分は異なる可能性がある」という大前提があると思われます。ブログの内容を鵜呑みにして、国内のマクドナルドを指して「だから食べないんです」と言われても、なんだかなーと思ってしまいます。
こういう記事って無条件に広がるからなんだかなぁと思います。
17の成分のうち、全部ではないですが、いくつかを調べてみると(だいたい10分くらいの所要時間でしょうか)、いろいろと知識を得られました。
シェアする方の中にそういう方がどれくらいいらっしゃるのか。
17の成分については、一部を除けばごくごく一般的なもののようです。
色の保持に使われているナトリウムの説明はラディッシュボーヤのサイトにありまして、解説にある「ピロリン酸二水素ナトリウム」が同じものかはわかりませんが、「ピロリン酸塩の中では、比較的よく使用されるものであり、かんすい、膨張剤の成分として、また、食品のpH調整の目的や、プロセスチーズ等における乳化塩として使用される。」と書かれています。
また、ポリジメチルシロキサンは、こんな具合。
http://daijiten.radishbo-ya.co.jp/outline/704.html
シリコーン油は体内に吸収されず出ちゃうのもあるようですね。
で、実際には、パッと見ただけでわからないわけですよ。
さて、問題のごく一部が何かということですが、こういう方々が騒ぎたいのであれば、THBQ :tert-ブチルヒドロキノンについてでしょうね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Tert-ブチルヒドロキノン
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~抜粋~
冷凍魚と魚製品で許可されている添加の上限値は1000 mg/kgである。
~抜粋~
日本では食品添加物としての利用が認められておらず、TBHQを含む食品の輸入・販売が禁止されている[5]。
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ちなみに、過去にこれが検出された例がありますが、検出量は諸外国の指定範囲内ではあります。
http://www.eiken.pref.kanagawa.jp/008_topics/files/topics_070207.htm
さて、ここまで来てもう一度よく見てみましょう。
http://www1.mcdonalds.ca/NutritionCalculator/IngredientFactsEN.pdf
この原材料の発表は、アドレスを見ると、カナダのマクドナルドのようです。よって、日本であーだこーだいっても、「日本のポテトの成分は異なる可能性がある」という大前提があると思われます。ブログの内容を鵜呑みにして、国内のマクドナルドを指して「だから食べないんです」と言われても、なんだかなーと思ってしまいます。
2014年5月14日水曜日
【Radio】ボランティアと管理の両立は難しい
今年度から熊本の崇城大学情報学部の非常勤講師を務めさせて頂くことになりました。
コミュニティFMで行っている番組作りについていろいろとお話をしています。
さて、今回のラジオネタ、「ボランティア」と「管理」について考えてみたいと思います。誤解を恐れずに言えば、重箱の角をつつくようなことを書きます。ですが、文脈の中で読み解かないとわからない内容です。全体を俯瞰する鳥の目と細部を見通す虫の目は、両方備わってこそ意味があります。
よく相談で言われるのが「ボランティアを受け入れたい」「受け入れるためにはどうしたらいいか」という質問です。そこで、実際どんな感じなのかを再現してみます。
相談「ボランティアを受け入れたいんです」
私「なぜですか?」
相談「番組作りのコストが減るから」
私「その他に理由は?」
相談「......コストが一番ですね」
ポイント①
「その他に理由がない」場合、短絡的なモノの見方です。もう少し広い視野を身につけましょう。
私「その他はないですか?」
相談「番組が増える?」
私「増えますね。他にどんなメリットがあると思いますか?」
相談「さらに人が来るかもしれません」
私「そうですね、その他にメリットはありませんか?」
相談「んーんー」
私「では、ボランティアを入れるデメリットはなんですか?」
相談「人集めをどうやっていくか」
私「そうですね、他には?」
相談「人が集まるので管理の問題とか」
まず、ボランティアを受け入れることで関わる人が増える、つまり、コンテンツが増えます。つまりは、ボランティアを受け入れることで、コンテンツは増える、となります。ですが、それを手にすると失うものがあるのですが、それが「管理」です。
故に、「たくさんの人を関わらせたい」と、「管理したい」は、共存できないのです。ただし、これは一般的に考える「管理」を行った場合なのです。
私「たくさんの人に関わってもらいたいけど、管理したい、という場合、どんな管理を考えていますか?」
相談「.........」
私「では、管理をしない、とした場合、どうなりますか?」
相談「.........」
ここまで来てわかると思いますが、相談者にとっては未体験なので、イメージ出来ないのです。イメージ出来ないことを質問されて、答えたところで、実際には伝わらないのではないかと私は感じました。そこで考え方を変えてみましょう。
「ボランティアとして関わる人を増やしたい」とは言っても、ローマは一日にしてならず、千里の道も一歩から、ということで、アタマの中に、ボランティアAさんをイメージし、その方が、継続的に番組作りに関わることができ、さらには、そういう方がたくさん増えれば....「ボランティアとして関わる人を増やす」ことはできそうではありませんか?
さらに言えば、自分がボランティアAさんになったつもりで考えてみましょう。
ラジオ局のディレクターとこれから番組を作って行くとき、ボランティアとして楽しく、継続的に番組作りに参加していきたい、と思うにはどうしてもらいたいでしょうか?そのインセンティブは何ですか?お金以外の何かがそこに必要なことがわかります。魅力ある放送局にするには、それに対しての想像力がカギになります。イメージをしっかり持つことが大切なのです。
その関係をどう作っていくか、という点については、また別の機会にお話します。
*このエントリーは1ヶ月前に下書きしていたのですが、関係の作り方については、5/16の第2回目の講義の内容になりそうです。
コミュニティFMで行っている番組作りについていろいろとお話をしています。
さて、今回のラジオネタ、「ボランティア」と「管理」について考えてみたいと思います。誤解を恐れずに言えば、重箱の角をつつくようなことを書きます。ですが、文脈の中で読み解かないとわからない内容です。全体を俯瞰する鳥の目と細部を見通す虫の目は、両方備わってこそ意味があります。
よく相談で言われるのが「ボランティアを受け入れたい」「受け入れるためにはどうしたらいいか」という質問です。そこで、実際どんな感じなのかを再現してみます。
相談「ボランティアを受け入れたいんです」
私「なぜですか?」
相談「番組作りのコストが減るから」
私「その他に理由は?」
相談「......コストが一番ですね」
「その他に理由がない」場合、短絡的なモノの見方です。もう少し広い視野を身につけましょう。
私「その他はないですか?」
相談「番組が増える?」
私「増えますね。他にどんなメリットがあると思いますか?」
相談「さらに人が来るかもしれません」
私「そうですね、その他にメリットはありませんか?」
相談「んーんー」
私「では、ボランティアを入れるデメリットはなんですか?」
相談「人集めをどうやっていくか」
私「そうですね、他には?」
相談「人が集まるので管理の問題とか」
まず、ボランティアを受け入れることで関わる人が増える、つまり、コンテンツが増えます。つまりは、ボランティアを受け入れることで、コンテンツは増える、となります。ですが、それを手にすると失うものがあるのですが、それが「管理」です。
故に、「たくさんの人を関わらせたい」と、「管理したい」は、共存できないのです。ただし、これは一般的に考える「管理」を行った場合なのです。
私「たくさんの人に関わってもらいたいけど、管理したい、という場合、どんな管理を考えていますか?」
相談「.........」
私「では、管理をしない、とした場合、どうなりますか?」
相談「.........」
ここまで来てわかると思いますが、相談者にとっては未体験なので、イメージ出来ないのです。イメージ出来ないことを質問されて、答えたところで、実際には伝わらないのではないかと私は感じました。そこで考え方を変えてみましょう。
「ボランティアとして関わる人を増やしたい」とは言っても、ローマは一日にしてならず、千里の道も一歩から、ということで、アタマの中に、ボランティアAさんをイメージし、その方が、継続的に番組作りに関わることができ、さらには、そういう方がたくさん増えれば....「ボランティアとして関わる人を増やす」ことはできそうではありませんか?
さらに言えば、自分がボランティアAさんになったつもりで考えてみましょう。
ラジオ局のディレクターとこれから番組を作って行くとき、ボランティアとして楽しく、継続的に番組作りに参加していきたい、と思うにはどうしてもらいたいでしょうか?そのインセンティブは何ですか?お金以外の何かがそこに必要なことがわかります。魅力ある放送局にするには、それに対しての想像力がカギになります。イメージをしっかり持つことが大切なのです。
その関係をどう作っていくか、という点については、また別の機会にお話します。
*このエントリーは1ヶ月前に下書きしていたのですが、関係の作り方については、5/16の第2回目の講義の内容になりそうです。
2014年5月13日火曜日
【閑話】美味しんぼ、読んでいないけどね。
私は以前、建築史のイラストを描く仕事をしていました。その時によく描いた図に「鳥瞰図」というものがあります。かんたんに言えば、「鳥の目で見た感じ」の絵です。そのイラストをイメージしながら、庭園を歩いたりすると、仕掛けの関係性がよくわかります。全体をイメージしながら部分を見るのですから、どんな意図が隠されているのかもわかります。
さて、昨今、大騒ぎの美味しんぼですが、正直、表現がどうのこうの言うのは、ナンセンスだと思っています。「議論すべき内容」を考慮すれば、大した問題ではないと思うからです。それ以上に、なぜ今この内容なのか?これを掲載したのか?そして、部分ではなく、全体を見てみた時に、どう映るのか?ということについて考えてみたいと思います。
2011年5月頃だったでしょうか。友人と福島について話しをしていました。その方が言うには「封鎖しかない」でした。私は住む場所が無くなるという現実、そうは言っても放射線の線量によっては状況も変わるのではないかという期待から、封鎖する、という選択には納得できませんでした。
しかし、実際は現在も封鎖しています。それが現実です。
震災直後からの全体を、ぼんやりと眺めているとどうしても気になることがあります。それは、安全についての議論の欠如です。
個人的な見解ですが、どうも黄色人種には、情緒に訴えるところがあるように思います。戦時下の捕虜の問題、虐殺、それらへの捉え方も、ヨーロッパとアジアでは異なるように感じます。感情的な部分を切り分けて、安全に暮らす、という点について考えてみると....
風評被害という言葉で、風評でないものも風評被害という言葉でフタがされていないでしょうか?現実的に、避難されている方で、自分の家に帰りたい人の割合はどの程度いるのでしょうか?ある番組を見ていた時に、避難地域の高校生の6割は戻ること自体を諦めて新たな土地で生活をした方がいいのではないかと話していました。一次避難という言葉は、彼らの新たな生活基盤を作ることの足かせになってないでしょうか?メディアは、避難所の方々を、故郷を失った失意の中の人物として捉えていませんでしょうか?そういう姿勢で彼らの前に立てば、その主人公を演じる自分に疑いを持つこともないでしょう。
震災以降の経過を見ていると、避難地域が数キロ単位で拡大していったり、隠していた情報がどんどん明らかになってきたり、私たちは、報道される内容を信じることができなくなっていきました。
美味しんぼについて言えば、2年かけて取材したであろう事実に対して、本人がなぜ批判されるのかわからない、というのはよく分かります。
あれだけ大衆はメディアの言うことを信じてこなかったはずです。誰が語る言葉を事実とするのでしょうか?自分に都合の良いことしか、真実と捉えないような風潮になっていませんでしょうか?私は、原作者が、語られない事実を丁寧に拾い上げていったことに疑いは持っていません。それは美味しんぼという作品が読者との間に作ってきた信頼関係に他なりません。
そして、こんな映像もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=k7kZRRkR6Xg&app=desktop
参議院の参考人として語っても、鼻血という現象は、メディアに登場することはないという現実が一方にはあるのです。もっともっと支援する側と支援される側の対話が必要です。コンサルタントで相談される内容も同じなのですが、技術的に解決できることと、対話でないと解決できないこと、それらを切り分ける必要があります。そうでないと、感情に流されてしまって、どうすべきかが見えなくなるからです。対話を積み重ねていきながら、現実に適応した議論と支援を行っていくべきだと感じています。
2014.5.14追記
表現がどうかということと、書かれていること、を一度切り離して考えてみると、ことは至ってシンプルだと思います。
実際には、その場所は安全かどうか、ということに対しての答えは、安全か、安全ではない、のどちらか一つしかありません。双葉町は安全です、というのが行政で、双葉町は安全なのか?、といっているのが美味しんぼです。
さて、学者から発信される「放射線の影響」の話しを聞く場合、いくつか知っておかないといけないことがあります。
①200mSv以下の影響については臨床データがない。
②高い線量で短時間被爆した場合と、低い線量を長時間被爆した場合では前者の方が影響が出やすいことが動物実験で証明されている。なのでおそらく人間も同じでは?と考えられている。
という事実です。
この2つの事実を、学者の文脈で言葉にすると、臨床データがない=認められていない=影響があるとは言い難い=影響があるとは言えない、という表現になります。逆に、臨床データがないので「影響がない」としているのは、実は、それはそれで問題です。
なので、その文脈がわかっていれば「影響があるとは言えない」という学者に対して、「では、貴方のご家族が双葉町で暮らしたいと言ったら、行かせますか、どうしますか?」と質問をすれば、その学者の真意がわかるかと思います。
少なくとも数人の学者は、「影響があるとは言えない」という「表現の説明」をすることになると思います。そうすると、「臨床データがない」という言葉が出てくると思います。ただ、だからと言って危険なのではありません。くれぐれも。今は線量が低くなっているからです。つまり、一番の問題は「わからない」ことなんです。そこまで突っ込んでみて初めて真実がわかります。質問を繰り返して反応を見ることもなく、学者の言葉をそのまま鵜呑みにするメディアを信頼などできるわけもありません。
さらに、元町長の健康状態を見れば、短時間に高い線量の被爆を受けたのではないか?とも想像ができます。ただし、ここでも繰り返しますが、現在は、線量は少なくなっているはずなので「今が危険」とも言えないのです。
では、そのような状況で何をすべきか、ということですが、今、日本が行うことは、たくさんの臨床データを取って、国際的に公表することだと思います。それをやるためには、絶対にやってはいけないことがあります。それは、事実を隠しながらデータを取ることです。間違いなく「人体実験だ」という批判に繋がります。
「わからない」から避難させ、臨床データを丁寧に取って、福島の経験を人類の財産のする姿勢こそが大切だと感じています。「低線量での長時間の臨床データ」が存在することは絶対にあってはならないのです。
私自身は、「コントロール下に置く」とはそういうことだと思います。
3年経っても除染が終わらない現実を考えれば、戻れるか、戻れないか、みたいなあやふやな状態で仮設住宅に住まわせるよりも、行政は、批判覚悟で「住めない」を前提に全力でサポートをする方が、よほど現実的だと思ってしまいます。
さて、昨今、大騒ぎの美味しんぼですが、正直、表現がどうのこうの言うのは、ナンセンスだと思っています。「議論すべき内容」を考慮すれば、大した問題ではないと思うからです。それ以上に、なぜ今この内容なのか?これを掲載したのか?そして、部分ではなく、全体を見てみた時に、どう映るのか?ということについて考えてみたいと思います。
2011年5月頃だったでしょうか。友人と福島について話しをしていました。その方が言うには「封鎖しかない」でした。私は住む場所が無くなるという現実、そうは言っても放射線の線量によっては状況も変わるのではないかという期待から、封鎖する、という選択には納得できませんでした。
しかし、実際は現在も封鎖しています。それが現実です。
震災直後からの全体を、ぼんやりと眺めているとどうしても気になることがあります。それは、安全についての議論の欠如です。
個人的な見解ですが、どうも黄色人種には、情緒に訴えるところがあるように思います。戦時下の捕虜の問題、虐殺、それらへの捉え方も、ヨーロッパとアジアでは異なるように感じます。感情的な部分を切り分けて、安全に暮らす、という点について考えてみると....
風評被害という言葉で、風評でないものも風評被害という言葉でフタがされていないでしょうか?現実的に、避難されている方で、自分の家に帰りたい人の割合はどの程度いるのでしょうか?ある番組を見ていた時に、避難地域の高校生の6割は戻ること自体を諦めて新たな土地で生活をした方がいいのではないかと話していました。一次避難という言葉は、彼らの新たな生活基盤を作ることの足かせになってないでしょうか?メディアは、避難所の方々を、故郷を失った失意の中の人物として捉えていませんでしょうか?そういう姿勢で彼らの前に立てば、その主人公を演じる自分に疑いを持つこともないでしょう。
震災以降の経過を見ていると、避難地域が数キロ単位で拡大していったり、隠していた情報がどんどん明らかになってきたり、私たちは、報道される内容を信じることができなくなっていきました。
美味しんぼについて言えば、2年かけて取材したであろう事実に対して、本人がなぜ批判されるのかわからない、というのはよく分かります。
あれだけ大衆はメディアの言うことを信じてこなかったはずです。誰が語る言葉を事実とするのでしょうか?自分に都合の良いことしか、真実と捉えないような風潮になっていませんでしょうか?私は、原作者が、語られない事実を丁寧に拾い上げていったことに疑いは持っていません。それは美味しんぼという作品が読者との間に作ってきた信頼関係に他なりません。
そして、こんな映像もあります。
https://www.youtube.com/watch?v=k7kZRRkR6Xg&app=desktop
参議院の参考人として語っても、鼻血という現象は、メディアに登場することはないという現実が一方にはあるのです。もっともっと支援する側と支援される側の対話が必要です。コンサルタントで相談される内容も同じなのですが、技術的に解決できることと、対話でないと解決できないこと、それらを切り分ける必要があります。そうでないと、感情に流されてしまって、どうすべきかが見えなくなるからです。対話を積み重ねていきながら、現実に適応した議論と支援を行っていくべきだと感じています。
2014.5.14追記
表現がどうかということと、書かれていること、を一度切り離して考えてみると、ことは至ってシンプルだと思います。
実際には、その場所は安全かどうか、ということに対しての答えは、安全か、安全ではない、のどちらか一つしかありません。双葉町は安全です、というのが行政で、双葉町は安全なのか?、といっているのが美味しんぼです。
さて、学者から発信される「放射線の影響」の話しを聞く場合、いくつか知っておかないといけないことがあります。
①200mSv以下の影響については臨床データがない。
②高い線量で短時間被爆した場合と、低い線量を長時間被爆した場合では前者の方が影響が出やすいことが動物実験で証明されている。なのでおそらく人間も同じでは?と考えられている。
という事実です。
この2つの事実を、学者の文脈で言葉にすると、臨床データがない=認められていない=影響があるとは言い難い=影響があるとは言えない、という表現になります。逆に、臨床データがないので「影響がない」としているのは、実は、それはそれで問題です。
なので、その文脈がわかっていれば「影響があるとは言えない」という学者に対して、「では、貴方のご家族が双葉町で暮らしたいと言ったら、行かせますか、どうしますか?」と質問をすれば、その学者の真意がわかるかと思います。
少なくとも数人の学者は、「影響があるとは言えない」という「表現の説明」をすることになると思います。そうすると、「臨床データがない」という言葉が出てくると思います。ただ、だからと言って危険なのではありません。くれぐれも。今は線量が低くなっているからです。つまり、一番の問題は「わからない」ことなんです。そこまで突っ込んでみて初めて真実がわかります。質問を繰り返して反応を見ることもなく、学者の言葉をそのまま鵜呑みにするメディアを信頼などできるわけもありません。
さらに、元町長の健康状態を見れば、短時間に高い線量の被爆を受けたのではないか?とも想像ができます。ただし、ここでも繰り返しますが、現在は、線量は少なくなっているはずなので「今が危険」とも言えないのです。
では、そのような状況で何をすべきか、ということですが、今、日本が行うことは、たくさんの臨床データを取って、国際的に公表することだと思います。それをやるためには、絶対にやってはいけないことがあります。それは、事実を隠しながらデータを取ることです。間違いなく「人体実験だ」という批判に繋がります。
「わからない」から避難させ、臨床データを丁寧に取って、福島の経験を人類の財産のする姿勢こそが大切だと感じています。「低線量での長時間の臨床データ」が存在することは絶対にあってはならないのです。
私自身は、「コントロール下に置く」とはそういうことだと思います。
3年経っても除染が終わらない現実を考えれば、戻れるか、戻れないか、みたいなあやふやな状態で仮設住宅に住まわせるよりも、行政は、批判覚悟で「住めない」を前提に全力でサポートをする方が、よほど現実的だと思ってしまいます。
2014年4月1日火曜日
【閑話】「笑っていいともグランドフィナーレ」を見て
2014年3月31日、32年間続いた番組「笑っていいとも」が終了しました。
少し気になっていたので、グランドフィナーレを録画していて、それを見ての感想です。ただ、感動したとか、そういう類いの話しではないです(笑。
いくつか気になることがあったのだが、1つだけ書いておきます。それは、明石家さんまが辞めた理由をディレクターとケンカしたと話していたことです。
みんなでゲームするコーナーについて「あのコーナーは真剣にやってもらわないと困る」とディレクターが言った、という発言が興味深かったです。
その場合、真剣にやって笑いも起きずに終了〜となるか、真剣にやって失敗して笑われて終了〜となるか、のいずれかしかありません。勝負に勝てるかどうかは、どうでも良いです。何曜日が勝ったね!などと、テレビを見た人はいわないでしょうから。
これって、笑わせることを仕事とする人に対して、ものすごい侮辱だと思います。確かに、笑われてなんぼ、という芸風の方もいますが、あえていえば、その程度の芸人に、笑わせることにプライドを持っている人を合わせて参加させないと成立しない企画、というのは、やはり、どう考えても解せないのです。考えたディレクターにも「?」ですが、OKを出したプロデューサーにも「?」です。そのコーナーで何を提供したかったのでしょうか。そこから想像するに、制作側と出演者側とは、交わらないことが他の場面でも多かったのではないかと思うのです。
笑っていいともという番組の最大の特徴は「生放送である」ということでした。
つまり、その中で何が起きるかわからないドキドキ感だったり、温度が一緒に上がって行く一体感であったり、そういう感覚の共有こそが生放送の魅力です。そして、そのハプニングを寛容に受け入れられたMCがいたからこそ、あの番組は面白かったのだと思います。
以前、10代の頃、友達とテレビ番組の観覧者のバイトをしたことがありました。多くの番組収録で感じたのは「ハプニングは悪しきモノ」という共通感覚でした。ですから、リハーサルは入念に行い、段取りはよく確認し、カメラ割のチェックをし、本番に入るわけです。そして、ADが何かをしてカットがかかるとタレント達は先ほどのテンションとはうってかわり、スイッチをオフにする、という具合でした。
しかし、テレビのバラエティー番組の主流は、その方法です。きわどい発言はカットすれば良いし、間が生まれたりなんだりしたら、そこもカットすれば良い。濃縮還元のジュースを作るように、収録・編集こそが面白い番組を作る最善策とされています。
では、そういうことが善とされる現場で働く人が、何が起きるかわからない生放送に携わったらどうなるでしょうか。恐らく、生放送での冒険は減り、生放送なのに予定調和の方向に向かい、その結果、生放送でやっている意味すら見失うことになるでしょう。
ラジオ局に関わっていると、生放送の方がコストが掛からないことがわかりました。編集の手間はなるべく避けたいと思うようになります。ですが、私自身は生放送の方が好きです。打率は決して良くないかもしれません。でも、時々ホームランを打つような時があるかもしれないと思うと、やはり、生放送は楽しいな、と思うのです。
私が担当していた番組で、この3月に終了した音楽番組がありました。
この音楽番組は、ディランのアルバムをリリース順に聞いて行くというシンプルな内容です。そして、その合間はフリートークとなります。時にはものすごく深く分析して考えたり、時にはまったく違う話しで盛り上がったりなんてことがありました。
その音楽番組を約6年やってきましたが、その中で2回だけ、音楽を流さない回がありました。何の話しをして盛り上がったのかは覚えていませんが、音楽を流す雰囲気でもなければ、出演者も音楽を聞きたい様子でもないかったからでした。そこで音楽を流すことは、音楽が好きで自身も演奏したり、聞いたりしてきた人に対しては、苦痛であり、音楽に対しての敬意がない行為だと感じてしまったのです。結果、その日はトーク番組になりました。
でも、生放送の場合、これは多いにあり得ることだと思っています。ずっとつるんできた友人がガンで亡くなった日には、ものすごく個人的な追悼番組をやったりもしました。ある意味において、それを出さないことは放送に関わる人に取っては大切なことかもしれません。
ですが、パーソナリティを売りにしている方々の番組において、そんな大事件が無かったかのように振る舞うのは、ものすごく不自然だと感じてしまうのです。これが司会やナビゲーターのような進行役であれば、その役柄を全うすべきだと思いますが、パーソナリティを売りにしているのであれば、共感する部分も出てきたりして、その限りではないと感じました。
そして、最後、スマップ中居の発言で、バラエティは終わらないために番組を続けている、というものがありました。確かにそうだと思います。ただ、バラエティ番組は「終わらないために続ける」ということは、実は「続ける理由もないから終わる」ということに等しいと思います。続ける理由について、後付けの様々な言い訳は付けられますが、それらは本質ではありません。辞めない=続ける、というシンプルな図式なんだと思います。
では、続くとは何か、というと、その番組の面白さを最大限引き出すことなんだと思います。パーソナリティが武器であれば、そのキャラクターを出すべきだし、番組が生放送であるならば、生放送の魅力を最大限引き出すことだと思います。
確かに危うい場面もいろいろとあるかもしれません。だからこそ生放送でその場に参加したくなるのです。だからこそ、人は見るのです。続いているから見るのではなく、見られているいるから続くのです。
制作サイドは、視聴率が低迷すると、最初、企画のせいにするんだろうと思います。でも、そこに本質はありません。企画が悪いのではなく、制作サイドが「見てもらえる」というコトに対して、大いなる勘違いをしていることに気づかないのが悪なのです。
私は、いいともが終了したのは、生放送であることの武器を錆び付かせたことが原因ではないかと感じました。生放送なのに予定調和で、ドキドキもワクワクもソワソワも無い番組になってしまったら、どう考えても見なくなります。それよりも反乱する情報を整理してくれる番組の方を見たくなるでしょう。だから、情報バラエティ番組みたいな、幕の内弁当が増えるのです。
さて、最後の最後にラジオの話しをしておきましょう。
コミュニティFMの強みを考えた時、私は、生放送の量産、だと感じました。そして、その時に聞いていないと「聞き逃した」という感覚を味わうことこそ、「結果的」に聞く人が増える方法だと思っています。
リアルタイムメディアとしての武器はなんなのか?それをしっかり考えることこそ、コミュニティFMが継続できる第一歩になるんだと思います。
さて、毎日の生放送のバラエティ番組がなくなったことで、今後のテレビが変わって行くのではないかと思います。より、つまらない方に。そうなると、テレビ局はもっとマニアックにする方向が増えていき、そもそものマスメディアとしての役割すら軽視するメディアになっていくのではないかと思っています。
そのきっかけが「笑っていいとも」の終了になるような気がしています。
少し気になっていたので、グランドフィナーレを録画していて、それを見ての感想です。ただ、感動したとか、そういう類いの話しではないです(笑。
いくつか気になることがあったのだが、1つだけ書いておきます。それは、明石家さんまが辞めた理由をディレクターとケンカしたと話していたことです。
みんなでゲームするコーナーについて「あのコーナーは真剣にやってもらわないと困る」とディレクターが言った、という発言が興味深かったです。
その場合、真剣にやって笑いも起きずに終了〜となるか、真剣にやって失敗して笑われて終了〜となるか、のいずれかしかありません。勝負に勝てるかどうかは、どうでも良いです。何曜日が勝ったね!などと、テレビを見た人はいわないでしょうから。
これって、笑わせることを仕事とする人に対して、ものすごい侮辱だと思います。確かに、笑われてなんぼ、という芸風の方もいますが、あえていえば、その程度の芸人に、笑わせることにプライドを持っている人を合わせて参加させないと成立しない企画、というのは、やはり、どう考えても解せないのです。考えたディレクターにも「?」ですが、OKを出したプロデューサーにも「?」です。そのコーナーで何を提供したかったのでしょうか。そこから想像するに、制作側と出演者側とは、交わらないことが他の場面でも多かったのではないかと思うのです。
笑っていいともという番組の最大の特徴は「生放送である」ということでした。
つまり、その中で何が起きるかわからないドキドキ感だったり、温度が一緒に上がって行く一体感であったり、そういう感覚の共有こそが生放送の魅力です。そして、そのハプニングを寛容に受け入れられたMCがいたからこそ、あの番組は面白かったのだと思います。
以前、10代の頃、友達とテレビ番組の観覧者のバイトをしたことがありました。多くの番組収録で感じたのは「ハプニングは悪しきモノ」という共通感覚でした。ですから、リハーサルは入念に行い、段取りはよく確認し、カメラ割のチェックをし、本番に入るわけです。そして、ADが何かをしてカットがかかるとタレント達は先ほどのテンションとはうってかわり、スイッチをオフにする、という具合でした。
しかし、テレビのバラエティー番組の主流は、その方法です。きわどい発言はカットすれば良いし、間が生まれたりなんだりしたら、そこもカットすれば良い。濃縮還元のジュースを作るように、収録・編集こそが面白い番組を作る最善策とされています。
では、そういうことが善とされる現場で働く人が、何が起きるかわからない生放送に携わったらどうなるでしょうか。恐らく、生放送での冒険は減り、生放送なのに予定調和の方向に向かい、その結果、生放送でやっている意味すら見失うことになるでしょう。
ラジオ局に関わっていると、生放送の方がコストが掛からないことがわかりました。編集の手間はなるべく避けたいと思うようになります。ですが、私自身は生放送の方が好きです。打率は決して良くないかもしれません。でも、時々ホームランを打つような時があるかもしれないと思うと、やはり、生放送は楽しいな、と思うのです。
私が担当していた番組で、この3月に終了した音楽番組がありました。
この音楽番組は、ディランのアルバムをリリース順に聞いて行くというシンプルな内容です。そして、その合間はフリートークとなります。時にはものすごく深く分析して考えたり、時にはまったく違う話しで盛り上がったりなんてことがありました。
その音楽番組を約6年やってきましたが、その中で2回だけ、音楽を流さない回がありました。何の話しをして盛り上がったのかは覚えていませんが、音楽を流す雰囲気でもなければ、出演者も音楽を聞きたい様子でもないかったからでした。そこで音楽を流すことは、音楽が好きで自身も演奏したり、聞いたりしてきた人に対しては、苦痛であり、音楽に対しての敬意がない行為だと感じてしまったのです。結果、その日はトーク番組になりました。
でも、生放送の場合、これは多いにあり得ることだと思っています。ずっとつるんできた友人がガンで亡くなった日には、ものすごく個人的な追悼番組をやったりもしました。ある意味において、それを出さないことは放送に関わる人に取っては大切なことかもしれません。
ですが、パーソナリティを売りにしている方々の番組において、そんな大事件が無かったかのように振る舞うのは、ものすごく不自然だと感じてしまうのです。これが司会やナビゲーターのような進行役であれば、その役柄を全うすべきだと思いますが、パーソナリティを売りにしているのであれば、共感する部分も出てきたりして、その限りではないと感じました。
そして、最後、スマップ中居の発言で、バラエティは終わらないために番組を続けている、というものがありました。確かにそうだと思います。ただ、バラエティ番組は「終わらないために続ける」ということは、実は「続ける理由もないから終わる」ということに等しいと思います。続ける理由について、後付けの様々な言い訳は付けられますが、それらは本質ではありません。辞めない=続ける、というシンプルな図式なんだと思います。
では、続くとは何か、というと、その番組の面白さを最大限引き出すことなんだと思います。パーソナリティが武器であれば、そのキャラクターを出すべきだし、番組が生放送であるならば、生放送の魅力を最大限引き出すことだと思います。
確かに危うい場面もいろいろとあるかもしれません。だからこそ生放送でその場に参加したくなるのです。だからこそ、人は見るのです。続いているから見るのではなく、見られているいるから続くのです。
制作サイドは、視聴率が低迷すると、最初、企画のせいにするんだろうと思います。でも、そこに本質はありません。企画が悪いのではなく、制作サイドが「見てもらえる」というコトに対して、大いなる勘違いをしていることに気づかないのが悪なのです。
私は、いいともが終了したのは、生放送であることの武器を錆び付かせたことが原因ではないかと感じました。生放送なのに予定調和で、ドキドキもワクワクもソワソワも無い番組になってしまったら、どう考えても見なくなります。それよりも反乱する情報を整理してくれる番組の方を見たくなるでしょう。だから、情報バラエティ番組みたいな、幕の内弁当が増えるのです。
さて、最後の最後にラジオの話しをしておきましょう。
コミュニティFMの強みを考えた時、私は、生放送の量産、だと感じました。そして、その時に聞いていないと「聞き逃した」という感覚を味わうことこそ、「結果的」に聞く人が増える方法だと思っています。
リアルタイムメディアとしての武器はなんなのか?それをしっかり考えることこそ、コミュニティFMが継続できる第一歩になるんだと思います。
さて、毎日の生放送のバラエティ番組がなくなったことで、今後のテレビが変わって行くのではないかと思います。より、つまらない方に。そうなると、テレビ局はもっとマニアックにする方向が増えていき、そもそものマスメディアとしての役割すら軽視するメディアになっていくのではないかと思っています。
そのきっかけが「笑っていいとも」の終了になるような気がしています。
2014年3月6日木曜日
【コンサルタント】コンテクスト・リーディング
最近、企業や団体様からの相談を受けるようになりまして、そのことをお話しようかと思います。そのサブカテゴリを【コンサルタント】としました。
相談の中でよく感じるのが、相談者の「文脈」を読む感覚の有無です。
どういうことかと言いますと「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話しです。
ある事柄が起きて、全く関係ないところに影響が出ることもある。みたいなことですが、最近ではこじつけの意味にも取られるとか、真逆じゃないか。おかしい。
さて、一橋大の楠木先生は、「ストーリーとしての競争戦略」の中で、「連続する因果関係」を「ストーリー」と呼びました。「ビジネスの成功例はストーリーになってる」というのです。ええ、当たり前だよね。と思ったらアウト。ちょっと言い換えてみましょう。
「ビジネスの成功例は、どれも連続する因果関係に基づいている」
と言われたらいかがでしょうか?
私もこの本を読んでなるほど、と思ったわけですが、様々な企業の経営者の「選択」だけを見ていくと、ものすごく特別なことをしている、という感じではないのです。いってしまえば普通です。
こうなったら、こうなるから、ここをそうして、こうすると、ああなって、そうなれば、こうなるから、よし、こうしよう!みたいなことでしかありません。
経営者に共通しているのは、少しばかりの度胸と文脈を読み解くチカラなのです。ですが、これを言うのには、自身がそれなりの暮らしをしていないと成立しないという事実。それも悲しいところです(笑。
ただ、文脈を読み解くということに注視すると、間違わない選択が容易になります。恋愛だってそうかもしれません、人間関係も。コンテクスト・リーディングができると、精神衛生上、大変宜しいかと思います。
さて、「コンテクスト・リーディング」という言葉、検索してみたら「アンケート用紙を最初から最後まで読んで、その人の心理等を読み解く」みたいなことで使われていたようですが、アンケートのような、個人が特定しにくいものだったり、主体性の曖昧なものに対して、文脈を求めるのはどうかと思います。読むのは個人の心理であって、コンテクストと呼べる程のものではない気がしました。私の心理の文脈を読んでみてください、とは言わないですものね。
相談の中でよく感じるのが、相談者の「文脈」を読む感覚の有無です。
どういうことかと言いますと「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話しです。
ある事柄が起きて、全く関係ないところに影響が出ることもある。みたいなことですが、最近ではこじつけの意味にも取られるとか、真逆じゃないか。おかしい。
さて、一橋大の楠木先生は、「ストーリーとしての競争戦略」の中で、「連続する因果関係」を「ストーリー」と呼びました。「ビジネスの成功例はストーリーになってる」というのです。ええ、当たり前だよね。と思ったらアウト。ちょっと言い換えてみましょう。
「ビジネスの成功例は、どれも連続する因果関係に基づいている」
と言われたらいかがでしょうか?
私もこの本を読んでなるほど、と思ったわけですが、様々な企業の経営者の「選択」だけを見ていくと、ものすごく特別なことをしている、という感じではないのです。いってしまえば普通です。
こうなったら、こうなるから、ここをそうして、こうすると、ああなって、そうなれば、こうなるから、よし、こうしよう!みたいなことでしかありません。
経営者に共通しているのは、少しばかりの度胸と文脈を読み解くチカラなのです。ですが、これを言うのには、自身がそれなりの暮らしをしていないと成立しないという事実。それも悲しいところです(笑。
ただ、文脈を読み解くということに注視すると、間違わない選択が容易になります。恋愛だってそうかもしれません、人間関係も。コンテクスト・リーディングができると、精神衛生上、大変宜しいかと思います。
さて、「コンテクスト・リーディング」という言葉、検索してみたら「アンケート用紙を最初から最後まで読んで、その人の心理等を読み解く」みたいなことで使われていたようですが、アンケートのような、個人が特定しにくいものだったり、主体性の曖昧なものに対して、文脈を求めるのはどうかと思います。読むのは個人の心理であって、コンテクストと呼べる程のものではない気がしました。私の心理の文脈を読んでみてください、とは言わないですものね。
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