2013年10月25日金曜日

【Radio】みんラジワークショップから生まれた番組「ステファン一家」

FM桐生は、主に夜の時間帯を「市民制作枠」として開放している。
基本、ボランティアで参加するその枠には、およそ70人くらいの方が関わっている。

その時間に、1か月に1度だけ放送する番組が第4金曜日の21時から放送する「ステファン一家」だ。

この番組の母体となったのは、みんラジというワークショップのメンバー。ラジオに興味や関心のある人を、FacebookやTwitter、ホームページで募集して、集まって来たメンバーによって生まれた番組である。

ワークショップを開催して、その中で、皆さんが面白いと思うこと、ものはなんですか?という質問から始まり、皆が面白いと思えるものの方向性を見いだし、さらに、各自が企画を出してメンバーにプレゼンし、全員が手を上げた企画だけ抽出している。
さらに、それらの企画を1つの番組にまとめて「流れ」を作ろうとしていた時に、吉本の新喜劇や関西で放送している「ほんわかテレビ」の話題になり、結果、それらの企画を許容するには、全編ドラマ仕立てにしよう!と盛り上がりを見せて、結果できた番組が「ステファン一家」ということなのだ。

さて、この番組、実は、番組だけを放送することが目的ではない。ゆくゆくは、番組を通して、ファンになってくれた方と共に、八木節でギネスに挑戦することが目的なのだ。
ギネス挑戦にかかる費用、参加者の募集、それらの調達をこの番組をきっかけに実現していく。

当初は、挑戦する内容を発信すれば人は集まってくれるんじゃないかと思っていた。だが、メンバーの1人が、「実際に、逆の立場だとして、『ギネスに挑戦しよう!集まれー!』と言われたって行かないよね?」という素朴だけど明快な問いに対して出した結果が、全編ドラマ、いや、コント仕立てにしよう!だったのだ。


では明日、夜9時にお会いしましょう。
リハで実感しましたが、生でコントをやっていくのは大変でした(笑。
今回は、私はいち出演者として、役柄を頂いて登場しております。どこまで出来るか、自分でも不安ですが(笑)、メンバーと共に楽しみ、聞いている人が吹き出してくれれば幸いです。ラジオはまだまだ楽しくできるんじゃないかと思っています。

2013年10月18日金曜日

【Radio】コミュニティFMの作り方 検討編② マスメディア型コミュニティFM

シリーズでお送りしております「コミュニティFMの作り方」。今回と次回でソーシャルメディア型とマスメディア型、2つのコミュニティFMのヒト、モノ、カネについて、お話します。私が関わるFM桐生は、ソーシャルメディア型寄りなので、マスメディア型はヒアリング等によって得た見地であることをご了承ください。

開局相談でよく聞かれるのが、「会社概要」「売上状況」「番組作り」あたりでしょうか。その他に聴取率なんてのもありますが、運営に関わる内容ではないので省きます。

まずは、「モノ」会社概要です。
チェックポイントは、「行政が資本参加をしているか、いないか?」
 →運営企業に資本参加しているとマスメディア型になる傾向は強いです。
 ・公共施設や公共空間にスタジオや事務所を構えやすくなる。
 ・第3セクター方式だと大手メーカーのコンサルを入れたがる。
 ・その結果、高価な専用放送システムでスタジオが作られる。
 ・機材は壊しちゃいかん!となり、スタジオ卓を触れるのは局内の数人になる。
 ・このヒトがいないと困る、という状況だと人件費も高くなることもアリ。
 ・その結果、役割分担が明確になる。
というわけで、管理統制の傾向に向かっていきます。


次に、「カネ」売上状況です。
チェックポイントは、「売上の比率」です。
 →放送事業の売上の中身について聞いてみてください。
 ・30%超えとか40%超えとかは規模によりますが、
  放送事業に巨大スポンサーがいることが多い。例えば行政だったり。
 ・地域の大手企業が軒並み出稿していたりする。右へ習えで全員参加。
 ・仮に全員撤退に右へ習えとなることを想像すると恐ろしい。
 ・代理店を入れて対応し、リスクとコストを軽減するのもアリ。
 ・各企業へしっかりした対応をするには担当者を明確にしよう。
というわけで、やはり、管理統制の傾向に向かっていきます。


最後に、「ヒト」番組作りです。
チェックのポイントの1つが「自主制作比率」です。
 →コンテンツの多さは関わるヒトの多さに直結しがち。コミュニティ放送では、60%以上ということで、過半数を目標にしましょう、と言われています。
 ・よほど優秀な人材でない限り、番組作りは担当者のカラーの域を出ることはない。
 ・関わる人が少ないのは、視点の少なさに繋がり、出せるカラーが偏りがち。
 ・執行部の守備範囲を出る案件の判断はしにくい。
というわけで、どうしても管理統制の傾向に向かっていきます。


このように「出資に行政が参加している」のは、管理統制の方向性に向く最大の要因です。資本の中身次第ではありますが、行政の資本がベースにあるなら、スタート時は管理統制の方向になりそうですし、実際、その方が無理なく行きそうです。ただ、その労力/コストを考えると....実に悩ましいところです。

では、なぜ前回の記事で、ラジオ局とリスナーの関係を考えることが大切か、と申し上げたかと言いますと、進むべき行き先を、ぼんやりとでも常に見つめていく必要があるからです。コミュニティFMに限らず、会社の運営には、スタートとゴールを、状況を加味した戦略で繋ぐことが大切です。よって、スタート地点をしっかり意識し、そして、向かう先も常に見つめているべきなのです。

さて、次回は、ソーシャルメディア型のコミュニティFMでも同様に見ていきたいと思います。

2013年10月10日木曜日

【閑話】3000 vs 1 ってことではないよね?

コミュニティFMの話題は一休みして、今日はある出来事を取り上げてみたいと思います。

*簡単にまとめようかと思ったのですが、元の記事をごらんください。

さて、このお話、いかがでしょうか?私はどうにもモンモンとしてしまいました。閉鎖の理由(法律違反)はわかるのですが、その対応がどうにも解せないのです。

ネットでの反応はいくつかあり、例えば「1人のクレームで皆が不幸?になるのはどうか」というもの。その1人が悪という構図。または、「なかなか同情できるんだけど、え?法律違反か!なら仕方ないじゃないか」という話。両方わかります。


さて、反対署名は、撤去に対してのことでしょう。そこで疑問が生まれます。
これだけ人に使われたりしているのであれば、手順は逆になったとしても、現状設置された工作物に対して許可申請を行うべきではないかと思うのです。3000人の要望と共に。
法律的な根拠など持ち合わせておりませんが、数年間使われて来て、コミュニティができるくらいの状況、手続きはされていなかったとしても、公益の既成事実があったと言えるのではないかと思うのです。であれば申請をするのは自然だし、それに対して行政も真摯に受け止めることを期待したいです。

でも、これまでは「たまたまクレームがなかっただけ」とも言えるかもしれません。

それも、昼夜逆転で仕事している人が居て、たまたまクレームになった、というのが実際のところなのではないかと思います。騒音の規定もあるだろうし、それ以前に、すでにたくさんの人が使っていたわけですから。なので、署名はこれまでの数年間での公益の実績を元に、許可を出してください、ということに向かうべきかと思うのです。


そもそも、当初のクレームは音でした。ならば音の対策を講じることで済むはずだったのが、行政判断ではクレームの元凶は根こそぎ刈っておけ!みたいなところで、撤去となりました。「騒音の話」が「無許可の工作物」に問題がすり替わった感じがして仕方ないんです。すり替わったと思う理由は、そもそも許可されていた工作物だとしたら、どうやって対処したのか?という疑問が残るからです。仮に、許可していたとしたら撤去までには至らないでしょう。やはり、音をどうにかしましょう、という話になります。ということは「音の問題」と「無許可の工作物」の話は本来、別々に議論すべき内容だと思います。音に対してのクレームの対応が撤去では、根本的な問題の解決になっていない気がするのです。

それに、仮にですよ、自分が出した苦情がきっかけで、家の前の施設が1つなくなることになり、それに反対する3000人の署名が集まっているとしたら....その3000人に会いたくない。逆に行政の撤去の判断が、自分にとっては迷惑な話です。

「いや、オレは音がうるさいって言っただけなんだけど....」と言うのかもしれません。

でも、結果だけみれば、行政判断での撤去の理由=自分が出したクレーム、という構図になります。もっと言えば、自分のクレームは行政の言い訳に利用されているのではないかとも思えてしまう。仮に彼らと対峙する機会があったらいやだなぁ。狭い街だろうし。そんな面倒には巻き込まれたくないです。

その時「皆さんが河川法に違反していたのが問題なのです。公益のためです。」
って言える人、どれくらいいるのだろうか?

これは、摩擦を恐れるが故に、最初の課題から少しずつズレて、ゴールが見えなくなり、多くの人が不幸になる結末を迎えるって話で、よくある話です。これが本当に残念です。同時に、ただただいずれの当事者になりたくないなぁと強く思ったのでした。


今回の件で言えば、まずは行政側がクレームをもらった家に言って状況を確認して、どうして欲しいかの要望を聞き、その要望をパークの利用者に伝えて、解決出来る方法を考える機会と対応する機会を作る、ってのが正解な気がします。で、それでも折り合わなければ、利用禁止か、撤去となるのかな。逆に折り合いが付いたら、工作物を許可して、よりたくさんの方に楽しんでもらえる公園にしたら良いと思います。

行政はこの手の課題には、もっと御用聞きに徹した方が良いかと。役割は、「当事者同士の意思疎通を計る事で、当事者が答え出すようにナビゲートする」ということです。言い換えれば「決断の責任は当事者に持たせる」ので、決断の責任を行政が追う必要すらないわけです。一番、好みそうなゴールではありません?

個人的に感じるのは、若い世代の中に、対話を好んで落としどころを探そうとするタイプの人が増えている気がします。対立や争いごとを嫌うピースフルな人が増えているのではないかと。マッチョなリーダーとか求められていない感じがしてならなりません。そういう文化に変わりつつあるから、コミュニケーションディレクターみたいな肩書きが生まれたり、コミュニティをデザインする人が生まれたりしているんだと思います。昨今、ワールドカフェ形式で対話を重んじるまちづくり系ワークショップが増えたのも同じ背景ですね。

いっそのこと、市民課に「折り合いを付ける課」を併設して欲しいです。で、行政は決断に責任を取らなくてすみますから、市民に対話の機会を与えて欲しいですね。そして、ファシリテーターは、境界線を引き続けた土地家屋調査士のOBに活躍して頂きましょう(笑)

これで、多少はモヤモヤが晴れた気がします。

2013年10月3日木曜日

【Radio】コミュニティFMの作り方 検討編① コミュニティFMの2タイプ

コミュニティFMの取材をしていると開局までの検討内容と議論の経緯が「どんな局になるのか?」と大きく関ることがわかりました。つまり、逆を言えば、目指したいコミュニティFM局をしっかり見据えて共有していくことで「必要なプロセスを経て開局を迎えることができる」とも言えます。

さて、私は経験上、コミュニティFMのタイプを2つに分類しました。
1つはマスメディア型のコミュニティFM、もう1つがソーシャルメディア型のコミュニティFMの2種類です。今回は、2つのタイプがどんな放送局なのかのイメージをお伝えしたいと思います。これは報道局としての姿勢とも繋り、様々な打ち手と深く関ります。

以下の分類は、単純にどちらか、ということだけでなく、その傾向がある、とお考えください。

【マスメディア型コミュニティFM】
・営業、技術、総務役割分担と担当者付けが明確である。
・指揮系統がしっかりしている。
・ラジオ局=発信者、リスナー=受信者という意識が高い。

【ソーシャルメディア型コミュニティFM】
・担当はあるが基本的にオールマイティ
・現場に委ねる意思決定の範囲が広い
・ラジオ局=「コミュニティの一員」という意識がある。


これからコミュニティFMを作ろう!とした場合、上記の中で私自身が最も重要だと考えるのは、3つ目のラジオ局とリスナーの関係です。

「発信者」という意識をもったコミュニティFMは、情報の正確性と信頼性を重んじます。故に意思決定者を明確にし、ブレない方針と思考であらゆる事柄を決定していきます。さらに各担当を決めることで、スムースな意思疎通と現場との連携を実現します。
そのため、現場で新しい発見があり、基本方針を見直す必要性を感じても、まずは、局内の意思決定者を説得する労力と時間を必要とします。特に新しい技術やツールの導入の際には、そのメリット、デメリットを伝えて判断を煽るという手続きが必要になり、その際に優先すべき事柄は意思決定者に一任されることになります。結果、現場とは全く異なる視点で判断されたりすると、現場の士気が下がるなんてこともよくある話です。
さらに言えば、無償のボランティアスタッフに有償のスタッフと同様の責任を持たせることは難しく、結果、ボランティアに委ねる範囲も少なくなります。情報の扱い方で言えば、公的機関から配信されるもの以外の情報、例えば、リスナーから寄せられる情報は裏取りの方法も含めて、スキームを決めていたり、確認が取れるまでは発信しない、という方針を持っているようです。

一方、ソーシャルメディア型の「コミュニティの一員」というものがどういうものかと言うと、例えば、商店街のお肉屋さんに靴屋さんの奥さんが買い物に行くように、店主とお客という関係は、ロケーション次第で、反転します。このように「情報を発信する人と情報を受信する人がコミュニティ内で入れ替わることを許容する」ということを意味します。この役割の転換は、市民が先生になる市民塾や誰でも先生になれる地域大学の取組にも通じるものがあります。
コミュニティFMに置き換えると、コミュニティの一員であるが故、持ちつ持たれつを基本とし、リスナーにラジオを通して情報を発信しても、時には他のメディアを使ってリスナーと情報を共有してインプットすることも想定しています。さらには組織内にもその文化は反映され、担当は決まっていても明確な役割分担はせず、基本的にオールマイティな人材が増えていきます。そのため、あらゆる場面でお互いのフォローがしやすいというメリットがあります。また、ボランティアにたいしてもそのスタンスで対応するので、多くの責任を委ねる傾向があります。
局内では、最終意思決定者はいたとしても、各担当が現場で臨機応変に対応でき、多くの場面で意思決定を行うことを許容し、その経過と結果を報告することで情報を共有していきます。
もちろん、メリットばかりではありません。現場での臨機応変の度合いに個人差が生まれるので、あの人に頼めば大丈夫だとこの人だと断られそう、みたいなことが起きます。そうると、情報が集まる人、情報を活用出来る人が分かれ出して、結果的に統率が取りにくくなる、という危険も孕んでいます。

以上のように、2タイプを検討して決めることは、コミュニティFMの運営イメージと直結していくことがわかると思います。そして、どちらの方が“私達にとって”現実的かを判断することの重要性をおわかり頂けたのではないかと思います。

例えば、どこかの局にヒアリングを行う際も、コミュニティFMとしてのスタンスを伺って、ご自身の中で「マスメディア型」「ソーシャルメディア型」と分類してみてください。その後、局内の組織体制、ソーシャルメディアの利用状況、ボランティアスタッフの受け入れ、そして、経理状況などを伺ってみてください。そうすれば、スタンスと打ち手の矛盾の有無がわかり、なぜその局がうまくいっているか、または、うまくいっていないのかがわかるが見えてくると思います。


最後にその矛盾の具体例を挙げておきます。
これは私が、あるコミュニティFMの方にヒアリングした際に言われたことなのですが、「ボランティアは無責任だから任せられないので、開局から3年くらいで受け入れを辞めた」とのこと。この一文に、実に多くの矛盾が存在します。
すべてを管理統制していくことを前提としたら、ボランティアの受け入れは慎重にすべきです。むしろ、受け入れない方がいいでしょう。一方で、番組作りにボランティアの必要性を感じるのであれば、それを許容できる体制とルールを作るべきです。例えば、その時間帯を市民枠として、局の制作から完全に切り離すなど。ただ、有償で働く責任ある立場の人が、無償のボランティアスタッフに責任を持たせるという発想自体を改めるべきです。有償、無償問わず、責任感は、インセンティブに起因しますので、無償のボランティアでも、お金以外のインセンティブを与えることで責任感を醸成させることは可能です。逆の立場で考えてみてみましょう。仕事として有償でやっている人に無償スタッフのご自身にもっと責任感持ってもらわないと困るとか、放送に関わる人間として、などと言われたらゲンナリしませんか?
さらに言えば、それでもボランティアスタッフのチカラが必要であれば、管理統制を重んじるマスメディア型のスタンスそのものを見直す必要があるのかもしれません。それほど、この何気ない一文は私に衝撃を与えたのでした。

次回は、マスメディア型の運営の場合、ヒト、モノ、カネの3点がどうあるべきかを考えてみたいと思います。