2014年4月1日火曜日

【閑話】「笑っていいともグランドフィナーレ」を見て

2014年3月31日、32年間続いた番組「笑っていいとも」が終了しました。
少し気になっていたので、グランドフィナーレを録画していて、それを見ての感想です。ただ、感動したとか、そういう類いの話しではないです(笑。

いくつか気になることがあったのだが、1つだけ書いておきます。それは、明石家さんまが辞めた理由をディレクターとケンカしたと話していたことです。

みんなでゲームするコーナーについて「あのコーナーは真剣にやってもらわないと困る」とディレクターが言った、という発言が興味深かったです。

その場合、真剣にやって笑いも起きずに終了〜となるか、真剣にやって失敗して笑われて終了〜となるか、のいずれかしかありません。勝負に勝てるかどうかは、どうでも良いです。何曜日が勝ったね!などと、テレビを見た人はいわないでしょうから。

これって、笑わせることを仕事とする人に対して、ものすごい侮辱だと思います。確かに、笑われてなんぼ、という芸風の方もいますが、あえていえば、その程度の芸人に、笑わせることにプライドを持っている人を合わせて参加させないと成立しない企画、というのは、やはり、どう考えても解せないのです。考えたディレクターにも「?」ですが、OKを出したプロデューサーにも「?」です。そのコーナーで何を提供したかったのでしょうか。そこから想像するに、制作側と出演者側とは、交わらないことが他の場面でも多かったのではないかと思うのです。

笑っていいともという番組の最大の特徴は「生放送である」ということでした。

つまり、その中で何が起きるかわからないドキドキ感だったり、温度が一緒に上がって行く一体感であったり、そういう感覚の共有こそが生放送の魅力です。そして、そのハプニングを寛容に受け入れられたMCがいたからこそ、あの番組は面白かったのだと思います。

以前、10代の頃、友達とテレビ番組の観覧者のバイトをしたことがありました。多くの番組収録で感じたのは「ハプニングは悪しきモノ」という共通感覚でした。ですから、リハーサルは入念に行い、段取りはよく確認し、カメラ割のチェックをし、本番に入るわけです。そして、ADが何かをしてカットがかかるとタレント達は先ほどのテンションとはうってかわり、スイッチをオフにする、という具合でした。

しかし、テレビのバラエティー番組の主流は、その方法です。きわどい発言はカットすれば良いし、間が生まれたりなんだりしたら、そこもカットすれば良い。濃縮還元のジュースを作るように、収録・編集こそが面白い番組を作る最善策とされています。

では、そういうことが善とされる現場で働く人が、何が起きるかわからない生放送に携わったらどうなるでしょうか。恐らく、生放送での冒険は減り、生放送なのに予定調和の方向に向かい、その結果、生放送でやっている意味すら見失うことになるでしょう。

ラジオ局に関わっていると、生放送の方がコストが掛からないことがわかりました。編集の手間はなるべく避けたいと思うようになります。ですが、私自身は生放送の方が好きです。打率は決して良くないかもしれません。でも、時々ホームランを打つような時があるかもしれないと思うと、やはり、生放送は楽しいな、と思うのです。

私が担当していた番組で、この3月に終了した音楽番組がありました。

この音楽番組は、ディランのアルバムをリリース順に聞いて行くというシンプルな内容です。そして、その合間はフリートークとなります。時にはものすごく深く分析して考えたり、時にはまったく違う話しで盛り上がったりなんてことがありました。

その音楽番組を約6年やってきましたが、その中で2回だけ、音楽を流さない回がありました。何の話しをして盛り上がったのかは覚えていませんが、音楽を流す雰囲気でもなければ、出演者も音楽を聞きたい様子でもないかったからでした。そこで音楽を流すことは、音楽が好きで自身も演奏したり、聞いたりしてきた人に対しては、苦痛であり、音楽に対しての敬意がない行為だと感じてしまったのです。結果、その日はトーク番組になりました。

でも、生放送の場合、これは多いにあり得ることだと思っています。ずっとつるんできた友人がガンで亡くなった日には、ものすごく個人的な追悼番組をやったりもしました。ある意味において、それを出さないことは放送に関わる人に取っては大切なことかもしれません。

ですが、パーソナリティを売りにしている方々の番組において、そんな大事件が無かったかのように振る舞うのは、ものすごく不自然だと感じてしまうのです。これが司会やナビゲーターのような進行役であれば、その役柄を全うすべきだと思いますが、パーソナリティを売りにしているのであれば、共感する部分も出てきたりして、その限りではないと感じました。



そして、最後、スマップ中居の発言で、バラエティは終わらないために番組を続けている、というものがありました。確かにそうだと思います。ただ、バラエティ番組は「終わらないために続ける」ということは、実は「続ける理由もないから終わる」ということに等しいと思います。続ける理由について、後付けの様々な言い訳は付けられますが、それらは本質ではありません。辞めない=続ける、というシンプルな図式なんだと思います。

では、続くとは何か、というと、その番組の面白さを最大限引き出すことなんだと思います。パーソナリティが武器であれば、そのキャラクターを出すべきだし、番組が生放送であるならば、生放送の魅力を最大限引き出すことだと思います。

確かに危うい場面もいろいろとあるかもしれません。だからこそ生放送でその場に参加したくなるのです。だからこそ、人は見るのです。続いているから見るのではなく、見られているいるから続くのです。

制作サイドは、視聴率が低迷すると、最初、企画のせいにするんだろうと思います。でも、そこに本質はありません。企画が悪いのではなく、制作サイドが「見てもらえる」というコトに対して、大いなる勘違いをしていることに気づかないのが悪なのです。


私は、いいともが終了したのは、生放送であることの武器を錆び付かせたことが原因ではないかと感じました。生放送なのに予定調和で、ドキドキもワクワクもソワソワも無い番組になってしまったら、どう考えても見なくなります。それよりも反乱する情報を整理してくれる番組の方を見たくなるでしょう。だから、情報バラエティ番組みたいな、幕の内弁当が増えるのです。


さて、最後の最後にラジオの話しをしておきましょう。

コミュニティFMの強みを考えた時、私は、生放送の量産、だと感じました。そして、その時に聞いていないと「聞き逃した」という感覚を味わうことこそ、「結果的」に聞く人が増える方法だと思っています。

リアルタイムメディアとしての武器はなんなのか?それをしっかり考えることこそ、コミュニティFMが継続できる第一歩になるんだと思います。

さて、毎日の生放送のバラエティ番組がなくなったことで、今後のテレビが変わって行くのではないかと思います。より、つまらない方に。そうなると、テレビ局はもっとマニアックにする方向が増えていき、そもそものマスメディアとしての役割すら軽視するメディアになっていくのではないかと思っています。

そのきっかけが「笑っていいとも」の終了になるような気がしています。




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