2014年5月13日火曜日

【閑話】美味しんぼ、読んでいないけどね。

私は以前、建築史のイラストを描く仕事をしていました。その時によく描いた図に「鳥瞰図」というものがあります。かんたんに言えば、「鳥の目で見た感じ」の絵です。そのイラストをイメージしながら、庭園を歩いたりすると、仕掛けの関係性がよくわかります。全体をイメージしながら部分を見るのですから、どんな意図が隠されているのかもわかります。

さて、昨今、大騒ぎの美味しんぼですが、正直、表現がどうのこうの言うのは、ナンセンスだと思っています。「議論すべき内容」を考慮すれば、大した問題ではないと思うからです。それ以上に、なぜ今この内容なのか?これを掲載したのか?そして、部分ではなく、全体を見てみた時に、どう映るのか?ということについて考えてみたいと思います。

2011年5月頃だったでしょうか。友人と福島について話しをしていました。その方が言うには「封鎖しかない」でした。私は住む場所が無くなるという現実、そうは言っても放射線の線量によっては状況も変わるのではないかという期待から、封鎖する、という選択には納得できませんでした。

しかし、実際は現在も封鎖しています。それが現実です。

震災直後からの全体を、ぼんやりと眺めているとどうしても気になることがあります。それは、安全についての議論の欠如です。

個人的な見解ですが、どうも黄色人種には、情緒に訴えるところがあるように思います。戦時下の捕虜の問題、虐殺、それらへの捉え方も、ヨーロッパとアジアでは異なるように感じます。感情的な部分を切り分けて、安全に暮らす、という点について考えてみると....

風評被害という言葉で、風評でないものも風評被害という言葉でフタがされていないでしょうか?現実的に、避難されている方で、自分の家に帰りたい人の割合はどの程度いるのでしょうか?ある番組を見ていた時に、避難地域の高校生の6割は戻ること自体を諦めて新たな土地で生活をした方がいいのではないかと話していました。一次避難という言葉は、彼らの新たな生活基盤を作ることの足かせになってないでしょうか?メディアは、避難所の方々を、故郷を失った失意の中の人物として捉えていませんでしょうか?そういう姿勢で彼らの前に立てば、その主人公を演じる自分に疑いを持つこともないでしょう。

震災以降の経過を見ていると、避難地域が数キロ単位で拡大していったり、隠していた情報がどんどん明らかになってきたり、私たちは、報道される内容を信じることができなくなっていきました。

美味しんぼについて言えば、2年かけて取材したであろう事実に対して、本人がなぜ批判されるのかわからない、というのはよく分かります。

あれだけ大衆はメディアの言うことを信じてこなかったはずです。誰が語る言葉を事実とするのでしょうか?自分に都合の良いことしか、真実と捉えないような風潮になっていませんでしょうか?私は、原作者が、語られない事実を丁寧に拾い上げていったことに疑いは持っていません。それは美味しんぼという作品が読者との間に作ってきた信頼関係に他なりません。

そして、こんな映像もあります。

https://www.youtube.com/watch?v=k7kZRRkR6Xg&app=desktop


参議院の参考人として語っても、鼻血という現象は、メディアに登場することはないという現実が一方にはあるのです。もっともっと支援する側と支援される側の対話が必要です。コンサルタントで相談される内容も同じなのですが、技術的に解決できることと、対話でないと解決できないこと、それらを切り分ける必要があります。そうでないと、感情に流されてしまって、どうすべきかが見えなくなるからです。対話を積み重ねていきながら、現実に適応した議論と支援を行っていくべきだと感じています。


2014.5.14追記

表現がどうかということと、書かれていること、を一度切り離して考えてみると、ことは至ってシンプルだと思います。

実際には、その場所は安全かどうか、ということに対しての答えは、安全か、安全ではない、のどちらか一つしかありません。双葉町は安全です、というのが行政で、双葉町は安全なのか?、といっているのが美味しんぼです。

さて、学者から発信される「放射線の影響」の話しを聞く場合、いくつか知っておかないといけないことがあります。

①200mSv以下の影響については臨床データがない。
②高い線量で短時間被爆した場合と、低い線量を長時間被爆した場合では前者の方が影響が出やすいことが動物実験で証明されている。なのでおそらく人間も同じでは?と考えられている。

という事実です。
この2つの事実を、学者の文脈で言葉にすると、臨床データがない=認められていない=影響があるとは言い難い=影響があるとは言えない、という表現になります。逆に、臨床データがないので「影響がない」としているのは、実は、それはそれで問題です。
なので、その文脈がわかっていれば「影響があるとは言えない」という学者に対して、「では、貴方のご家族が双葉町で暮らしたいと言ったら、行かせますか、どうしますか?」と質問をすれば、その学者の真意がわかるかと思います。

少なくとも数人の学者は、「影響があるとは言えない」という「表現の説明」をすることになると思います。そうすると、「臨床データがない」という言葉が出てくると思います。ただ、だからと言って危険なのではありません。くれぐれも。今は線量が低くなっているからです。つまり、一番の問題は「わからない」ことなんです。そこまで突っ込んでみて初めて真実がわかります。質問を繰り返して反応を見ることもなく、学者の言葉をそのまま鵜呑みにするメディアを信頼などできるわけもありません。

さらに、元町長の健康状態を見れば、短時間に高い線量の被爆を受けたのではないか?とも想像ができます。ただし、ここでも繰り返しますが、現在は、線量は少なくなっているはずなので「今が危険」とも言えないのです。

では、そのような状況で何をすべきか、ということですが、今、日本が行うことは、たくさんの臨床データを取って、国際的に公表することだと思います。それをやるためには、絶対にやってはいけないことがあります。それは、事実を隠しながらデータを取ることです。間違いなく「人体実験だ」という批判に繋がります。

「わからない」から避難させ、臨床データを丁寧に取って、福島の経験を人類の財産のする姿勢こそが大切だと感じています。「低線量での長時間の臨床データ」が存在することは絶対にあってはならないのです。

私自身は、「コントロール下に置く」とはそういうことだと思います。

3年経っても除染が終わらない現実を考えれば、戻れるか、戻れないか、みたいなあやふやな状態で仮設住宅に住まわせるよりも、行政は、批判覚悟で「住めない」を前提に全力でサポートをする方が、よほど現実的だと思ってしまいます。

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