2015年4月25日土曜日

官邸ドローンと吉田松陰先生

官邸にドローンが投下されました。放射能を検出した土を乗せて。

この犯人が捕まり、様々な批判が集まってます。それらの批判をみながら、思い出したのは吉田松陰先生でした。大河ドラマ「花燃ゆ」では、まさに安政の大獄へと向かっていくところ。吉田松陰先生の命をかけた訴えに至る経緯がこれまでドラマの中で描かれていました。

テロに至る方の内面を想像しました。誤解を恐れずに言えば、私は、所謂テロ行為と松陰先生の苦悩の根源にあるのは、同じではないかと感じています。


世の中には、一国民では一生届かないであろう大きなチカラが動いています。一国のエネルギー政策などはまさにそうです。様々な業界、企業、権力者、そういう方々の中で保たれる均衡と団体、業界、もっと言えば国々という利害関係者との綱引きによって、日本という国の行く末が決っていくと感じています。

例えば、私が、自然エネルギーの有用性を感じたとします。それを訴えていたとします。その利用を心から信じて、その必要性を喉をからして訴えたとします。でも、何も変わらないでしょう。変えることが出来ない。そんな時に、大きなチカラの前で自分の無力さを痛感することになります。そして大きな絶望感を感じます。この反応の先の1つにあるのがテロ行為です。しかし、この先の選択肢はテロ以外にも存在します。


一方、松陰先生は、国の行く末を案じ、様々な訴えをしてきました。しかし、その内容は本質を捉えているが故に、反発を生み出します。その結果、投獄されたり、謹慎させられたりするのですが、そこでもやはり国の行く末を案じていきます。そして、その教えに感化された若いチカラが、国のため信じた道に邁進している姿を見るにつれ、謹慎によって身動きの取れない松陰先生は、自分自身に大きな憤りを感じていたのではないかと思います。その結果、命をかけた訴えに至ります。しかし、ここで先に上げた自然エネルギーの話しと異なり、彼の場合は、命をかけた訴え以外の選択肢を失ってしまっているのです。

私は、江戸時代の世において、「暗殺」という手段は、何かを変えるには有効な行為だったと思っています。これは道徳的観点での議論ではありません。単に、仕組みの問題なのですが、近代国家は、様々な権力者たちの均衡の上でのバランスを保つことが最優先です。よって、「担当者」がいなくなっても、その役割を別の担当者が補えば良いです。ですが、江戸時代では、担当者の能力や目指す方向によって、様々なことが独自の判断で行われていたのではないかと感じています。

具体的な例を1つ。
昔、桐生の山奥の根本山には賭場があったそうです。根本山詣出というガイドブックまであり、防火の神様として、江戸からたくさんの方がお参りにきました。なぜ、防火の神様かと言うと、実はここに住むと言われる天狗の伝説に由来します。
江戸の名物と言えば、火事ですが、ある年の大火で、一面が焼け野原になる中、どういうわけか、ある一軒のお屋敷がその被害を免れるのです。根元山に住む天狗が、その屋敷に火が及ばぬように霊力をまとうウチワで火の粉を振り払った、というのです。その屋敷の持ち主は、彦根藩。つまり、井伊家の屋敷でした。
その結果、商売人を中心にこぞって参拝するようになるのですが、行った先の娯楽がなんとカジノな訳です。しかも、賭場があったと言われる山頂には神社があるのですが、その神社一体の土地の持ち主は、彦根藩。井伊家なのです。そこで焼いた炭を彦根まで運んでいたそうです。実際にはお金だったという推察は容易いです。山一体は地元の方の持ち物でしたが、山頂だけは井伊家の持ち物なのです。
つまり、幕府の要人である井伊直弼は、天狗伝説を用いて防火の神様を作り、その神様を祀る山頂の土地を買って、賭場を開き、そこに人が集まるようガイドブックを作っていたわけです。彼は、お金を集める仕組みを独自で作っていた、と推察できます。

そんなことは今の国家で出来るでしょうか。当時は、一人の要人を暗殺することと権限を奪うこと、権力者が目指す未来を断ち切ること、が同じ意味を持っていたと思います。今は違います。「ポスト」という言い方ができるように、誰が来ても良いのです。決められた役割をそのポストで演じれば良いのですから。


さて、ここまでをまとめるとこうなります。
①今のご時世、国民1人の声で世の中の流れが変わることはないという現実。
②一方、松陰先生は、優秀であったものの要人の道を失い、命をかけた訴えしか手段が残されていなかった。

②については、実際にそうなります。命をかけた訴えを起こし、それに感化・共感する人々が実際に世の中を変えていきます。それは結果的にそうなったとは言えますが、松陰先生の命の使い方は、実に武士らしい生き様だったと思います。


話しを元に戻して、①の行く末について考えてみます。
このような大きなチカラを感じた時、人々はどのようなアクションを起こすのでしょうか。私は反応としては、3つあると思います。

1つ目「諦める」
変えたいと思っても、自分には出来ない、と思って諦める。なかったことにする。一番多いと思います。悪いことではありません。暮らしが良くなることを望みつつも、自分がすべきことではない、と考えるという反応です。
2つ目「やっぱり変えたいと頑張る」
ここの反応には2つの道があります。
1つが「政治に参加する」
大きな流れを作っているであろうポジションに自分自身が就くことを目指すことです。権利や権限を持とうと考えるのです。今回の市議選、立候補者が多いのはそういう理由だと思っています。つまり、そういう憤りを感じているからこそ、これだけの候補者が誕生するのです。そして、先に諦めた人も、候補者に1票を投じることで、暮らしが良くなることを望む、のです。
しかし、私は、たとえその場所についたとしても、大きな壁にぶつかると思っています。私が政治に興味がないのはそういう理由です。さらに大きなチカラを感じるのではないかなーと私は思ってます。
もう1つが「チカラを持つ」
政治にはお金が必要と言われます。どういう用途で使うのかわかりませんが、必要だそうです。では、お金はどこから来るのか?と考えたら、産業界であることは間違いありません。ここで言うチカラとはお金に他なりません。仮に国家が原発を推進していても、自然エネルギーが重要だと想い、それを推進させたいなら、自分でやれば良いのです。政治家にお金を回してやらせるのではなく、自身でやってしまえばいいのです。
ちなみに、私は総務省とも戦い続けてきた、そういう孫さんのスタンスが好きなのでSoftBankを使い続けてます(笑)。
3つ目「訴え続ける」
この行く末が、テロ行為だと思います。もちろん、言い続けるだけという反応もあるかと思います。私は、自分自身が信じた道をずっとずっと訴え続けた先に、「命をかけて訴えればそれに気付いてくれる人もいるのではないか?」と本当に思ってしまうのでは?というのが想像に容易いのです。江戸時代ではそれが出来ました。でも今は違うのです。だからテロ行為はしてはならないのです。
声を大にして言えば言う程、周囲から滑稽に見られ、嘲笑され、それでも国を思って声を出し続けたら、どんな境地に行くのだろうと感じ、その純粋さになんとも哀しい気持ちになるのです。ですが、テロ行為程度では、この世の中変わりません。もっと仕組みを学び、本当のチカラを付けるしか、変えることはできないのです。そのことをちゃんと理解した方が良いと思うのです。しかも、簡単にチカラを付けることなんて出来ません。だからこそ、同じ思いを持つ人たちと行動を共にするのです。そうして、本当に世の中に良いと思える方向に、産業のチカラで変えていくのが今の社会に必要なことだと思っています。なので、起業家支援が必要だと思っています。


そして、最後、今回の件で、国は「官邸周辺でドローン飛ばしちゃダメ」という法案を出すとか出さないかと言ってますが、私は、その報道をみて、やはり政治家に政治はできないな、と思いました。「臭いものは持ち込まないで」としか見えないのです。そうなると国民の感情には別の火が付きます。「福島の放射能の話しを国に持ち込むなと言ってるなう?」というスタンスです。

では、どうすれば良かったのかと考えました。
「ドローンを飛ばした行為については、空中権の侵害で訴え、保安上の理由から空中権の強化を今回の法案で通す」その上で、「放射能問題については、今も日々、改善に向けて対策と実践を行っています」という言い方にしたらどうかと思うのです。

というのも、空中に入ってきて良いとなると、ドローン飛ばして撮影できるし、それをネットにアップしたり、生配信なども出来てしまいます。また、毒蜘蛛を投下させることも出来ちゃいます。その場合は、空中権の侵害+プライバシーの侵害?とか、毒蜘蛛による傷害?みたいなカタチになるのでしょうか。詳しくはわかりませんが、今回、空中が無防備であることがよくわかってしまいました。

さらに、今回、ドローンで運んでいたのは、国内であちこちに移動させれている土です。「でも、持ち込まれて危険な土を作業員は作業して運んでます」これを言うと、「安全管理の元作業するのと、無防備なところに放つのでは意味が違う」と言う。しかし、「土を持ち込まれたところはどうなのでしょうか。そこから染出る雨水は川に流れ込まないのでしょうか」というと、最後は、「そうならないような対策を講じている」と言われる。ただし、その下流に住む人たちに防護策などないのです。今回の件は、ドローンと土と放射能を切り離して話すことで、不用意に国民感情を逆撫でしなくて済むのではないかと思うのです。

私は、今の社会では、テロ行為からは何も生み出せないと思っています。様々な権利・権限を有した方々のバランスの上で成り立つ今の世の中が、テロ行為で変わるとは思えないのです。松陰先生の時代とは、社会構造が違うのです。
もっと世の中の仕組みを学び、様々な経験を積み、自分の身の回りのことを少しでも変えられるような人が増えればいいなと思ってます。


さて、明日は桐生市の選挙です。私は、せめて「大きなチカラ」に負けないであろう人を選びたいと思います。




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